科目名 技術者倫理
単位数 2.0
担当者 非常勤講師 大場 充
履修時期 前期
履修対象 3年
概要 本講義は、世界の人々が歴史的に「人間はどう考え、どう生きるべきか」について、どのように考えてきたかを、ギリシャの哲学者から21世紀の社会学者フロリダまでの歩みを振り返り、理解します。さらに、20世紀以降の世界がどのように変化しつつあるのかを分析して、皆さんが生きてゆくこれからの社会がどのようなものであり、その社会において、専門技術者は何を求められるかについて考えます。
科目の到達目標 この講義では、近い将来社会へ出て、専門家として社会のために働かなければならない皆さんが、社会からどのような権限を委譲されており、必要な時、その権限をどのように行使する責任を社会から負わされているかを理解し、技術者としての人生を全うするために必要な倫理観がどのようなものであるか、どう考えるべきかについて学び、実践できるようにすることを目標とします。
受講要件 特に、受講前に前提とする講義や知識はありません。講義には、やむを得ない理由がある場合を除いて、出席することが必要です。
事前・事後学修の内容 本講義は議論が主体ですから、積極的に自分の意見や、疑問を表明する努力をしてください。そのために、事前に教科書を予習しておいてください。また、宿題が出ている場合は、課題に取り組み、結果を提出してください。一般的に日本の学生諸君は、既に解明され、解決策が定まっている問題を解く技術を、教科書から学ぶことには慣れていますが、解決策が定まっていない問題を考え、議論することが苦手です。講義では、先人達が考えた有名な思想を紹介しますが、提示される現実の問題に対する解決には、正解も不正解もありません。そのことをよく理解した上で、現実や文脈に即応した解決策を検討し、考えることが重要です。
講義内容 1.遵法精神、合理精神、道徳観念、倫理観について
日本語の古語である「やまとことば」には「倫理」の概念を示す言葉はありませんでした。似たような意味の日本語には、遵法精神や規律を守る精神をいう「しつけ」などはあります。中国から伝来した「道徳(観念)」という言葉もあります。これらの言葉は、その核心部分で倫理とは違ったことを意味しています。ここでは倫理の概念について考えてみます。

2.ギリシャ人の倫理観について
すべての市民が平等なギリシャの都市国家では、その市民たちが「倫理的」に行動することが重要な問題でした。ギリシャの哲学者、ソクラテスはギリシャ市民が考え、身につけなければならない倫理観を考え、説きました。さらにプラトンは、イデア論に基づいて、ソクラテスの倫理観を理論化しました。

3.人間と倫理についての哲学について
プラトンの後、マケドニアのアリストテレスは、ギリシャ市民に限定せず、全ての人間、市民、政治家、戦士、将軍が身につけなければならない倫理観について考え、より普遍的な目的論と中庸の概念に基づく倫理観を確立しました。この講義では、古典的な目的論的倫理観について議論します。

4. 中世ヨーロッパの倫理観
5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、ヨーロッパの社会は実質的にローマ教会の支配下に置かれました。ローマ教会は、ローマ帝国が地中海世界を支配したやり方を踏襲し、全ヨーロッパを支配し人々は神のために全てを捧げなければならないことを教えました。

5. 中世ヨーロッパの終焉と宗教改革
16世紀に、イギリス、オランダ、ドイツなど、北ヨーロッパを中心に、宗教改革が始まります。ルターやカルバンは、「市民には働くことが神への奉仕となる」との信念に基づいた新しい倫理観を提唱しました。ここでは、そのような新しい考え方について理解し、それらがその後のヨーロッパ社会に与えている影響について考えます。

6. 日本人の思惟方法と倫理観
日本人は礼儀正しいと言われています。これは、閉鎖的な人間関係の中で、日本人がとる行動のパターンから得られた結論です。その反面、「旅の恥はかき捨て」などと言う表現もあるように、一度、閉鎖的な人間関係から離れた日本人は、時として倫理的でない行動をします。この講義では、島根県出身の哲学者・宗教学者である中村元東大名誉教授の分析を参考にして、日本人の道徳観と西洋人の倫理観の違いについて理解します。

7. ロックの倫理観とベンサムの功利論的倫理観
イギリスの哲学者ロックは、科学的・合理的な精神に基づき、普遍的な人間の倫理観について考え、国王であっても国民の生命と財産を犯すことはできないこと、さらに国民の信教(何を信じるか)の自由を侵害することはできないことを見出しました。このような考え方が基本となって、その後、民主主義が形作られてゆきます。ここでは、ロックの倫理観とその問題について議論します。さらにベンサムは、多様な国民の間で合意を形成する問題を考え、最も合理的な方法として多数決を提唱しました。その基本となった効用概念は、その後の資本主義社会の発展にも大きく影響します。ここでは、功利論的倫理観の特徴と問題点について議論します。

8. カントの観念論的倫理観とヘーゲルの労働観
18世紀の後半、ドイツの哲学者カントは、理想的人間としての純粋理性を考え、その純粋理性がものごとをどのようにとらえて正しい結論を得るかを考えました。さらに、カントはそのような純粋理性が現実の問題に直面した時、どのような選択をするのかを考え、その主体を実践理性としました。すなわち、普遍的な倫理観についての考察です。カントは、正しい行為の実践は、時や場所などの条件によって変化するものではないことを示しました。さらに、ドイツのヘーゲルは人類にとっての倫理観の重要性を説くともに、人間と労働の関係についても議論しました。ここでは、カントの倫理観を説明し、ロックの労働観とヘーゲルの労働観についても解説します。

9. プロテスタンティズムと資本主義
18世紀にイギリスではじまった産業革命は、19世紀に入って、他のヨーロッパ諸国やアメリカ大陸へ伝播しました。ただし、産業革命が進んだ国々の多くは、宗教改革で新教徒が主体となった、オランダ、イギリス、ドイツ、そしてアメリカ合衆国でした。このことは、プロテスタントの倫理観と資本主義の親和性を連想させます。社会学者のマックス・ウェーバーは、この問題を議論し、プロテスタントの労働観が、資本主義経済の推進力になっていることを主張しました。ここでは、資本主義社会における労働の倫理について考えます。

10. 産業化社会の労働と倫理
20世紀は、巨大国家と社会の産業化の時代でした。巨大な国内市場をもった国家が、巨大な産業を育成し、生産と消費を両立させることで、国民経済を大きく発展させた時代です。そのような時代においては、大量生産を実現するための大量な労働力が必要となり、各国で巨大な中間(所得)層が生まれました。この中間層労働者の役割は、機械の代用として休みなく、可能な限り正確に作業を繰り返すことでした。この産業化社会の経済と倫理観について議論し、理解します。

11. ポスト資本主義社会の誕生と労働の意味
20世紀の末期に入ると、世界は大きく変わり、特に先進諸国においては新自由主義思想の影響下で経済のグローバル化が進展しました。このため単純労働は、人件費の高い先進諸国から、人件費の安い開発途上国に移転しました。先進諸国の労働市場では、単純労働に従事する労働力の需要が減少し、高度な知識を必要とする知識労働のための労働力だけが求められるようになりました。人々は、より高度な知識を身につけるため、それまでのどの時代よりも長期間の教育を受けるようになりました。ここでは、新しい時代に生きる我々が、どのような倫理観を持って学び、仕事につくべきかについて理解します。

12. 新しい時代の技術者とその倫理
21世紀の社会では、企業が開発し生産する製品や、企業が市場に対して提供するサービスは、高度な知識を応用したものになっています。このことは、そのような製品やサービスの内容を、消費者である一般市民が理解し、その品質を吟味して購入することは、困難になりつつあります。その製品やサービスの開発に従事している専門家や技術者には、そのような一般市民から重大な権限が委任されており、その権限を一般市民に代わって行使しなければならない責任が負わされています。ここでは、専門家は、どのような倫理観を持って仕事に対峙しなければならないかを考えます。

13. 日米の雇用制度
日本の雇用制度は、米国の雇用制度とは異なり、同一労働同一賃金の実現が困難です。それは、日本の雇用制度が、新入社員一括採用、年功序列・年功賃金、終身雇用を基本としているからです。そのため日本企業では正規雇用の社員以外の労働力も活用します。非正規雇用や人材派遣です。米国の雇用制度は、職務記述書と呼ばれる従業員の仕事を明確に定義した文書が基礎になっています。このことによって、同一労働同一賃金が実現しやすい環境にあります。ここでは、日本と米国における雇用制度の違いについて理解します。

14 日米の専門家人材育成制度
日本の企業では、新入社員が大学でどのような専門を学んできたかをあまり問題にしません。情報系の学部を卒業した人材だけがソフトウェア開発などに携わるわけではなく、さまざまな学部を卒業した人々が、入社後に実施される新入社員研修を経て、技術者としてのキャリアを歩むことを可能にしています。これに対して、米国の企業では、職務記述書に基づく採用が実施されているため、専門教育を受けた人材だけが採用され、仕事に就きます。この現実に対応するため、米国の大学では実践的な教育をしています。このような、日米での専門家人材育成制度の違いについて考えます。

15. ソフトウェア技術者の社会的役割と責任
これからのソフトウェア技術者には、世界共通の社会的役割と責任が課せられます。特に、一般の消費者では全く理解の困難な理論を応用した製品を開発する技術者に対し、消費者は「技術者が真剣に製品を作った」とする期待があり、製品の誤動作で消費者の生命や財産に多大な損害が生じた場合には、その製品を売った企業はもちろんのこと、その製品の開発に携わった技術者にも責任の一端があるとされる可能性が出てきます。これが大学教育において、技術者の育成プログラムに技術者倫理の教育を組込むことが求められる理由です。ここでは、新しい時代の技術者の倫理観について理解します。
評価方法 講義中の議論への参画度評価(30%)、課された期末レポートの評価(70%)の2点に重点をおいて、総合的に評価します。原則として、講義への参画度と期末レポートにおける評価の視点は、以下のとおりです。
① 講義に出席したか
② 講義中に不明な点があれば積極的に質問したか
③ 講義中、講師から提示された問題について自分なりに考え、積極的に答えたか
④ 期末レポートの記述量は適正か
⑤ 期末レポートのアブストラクトの記述は適切な内容か
⑥ 期末レポートの設問解答部分の記述の論理は明快で妥当か
⑦ 期末レポートの作成に参照した参考文献は適切に記述されているか
⑧ 期末レポートの内容はオリジナルなものと言えるか
教科書等 教科書: 
大場充著、ソフトウェア技術者:プロの精神と職業倫理、日科技連出版社
参考書: 
(1)大場充著、組込みソフトウェア工学ハンドブック、日科技連出版社
(2)アリストテレス著、ニコマコス倫理学、岩波文庫
(3)ヴェーバー著、プロテスタントの倫理と資本主義の精神、岩波文庫
(4)中村元著、日本人の思惟方法、春秋社
(5)ドラッカー著、ポスト資本主義社会、ダイアモンド社
(6)フロリダ著、クリエイティブ資本論、ダイアモンド社
(7)山田昌弘著、希望格差社会、ちくま文庫
(8)清水正徳、働くことの意味、岩波新書
(9)濱口桂一郎、日本の雇用と労働法、日経文庫
担当者プロフィール 広島市立大学名誉教授

1994年4月~2014年3月 広島市立大学大学院 情報科学研究科 教授
1993年1月~1994年3月 日本IBM(株)SE研究所 副主幹研究員
1990年~1992年 米国IBM 勤務(Enterprise Systems)
1974年~1990年 日本IBM(株)勤務(製品保証、東京基礎研究所)
1973年3月 青山学院大学大学院 理工学研究科修士課程修了
備考